概要
信長 が「うつけ者」といわれたのに対し、利家は派手な身なりで「かぶき者」と呼ばれた。短気で喧嘩早いことで、信長から咎められることもしばしばあった。1560年 の桶狭間の戦いや、翌年の縁部の戦いには、織田家に勘当された身分で無断出陣して武功をあげた。
帰参を許されてからは「槍の又左」の勇名どおり、浅井・朝倉氏、石山本願寺、一向一揆などを相手に戦功をあげている。この頃の利家の屋敷は、羽柴秀吉の隣で、秀吉とは夫婦とも親しい間柄だった。1575年からは、柴田勝家に従事し、勝家と ともに北陸へ出向する。6年後には利家自身も能登国(石川県)を治める大名となった。
本能寺の変で信長横死後、秀吉と勝家が対立し、賤ケ岳の戦いが 始まった。立場上板挟みにあった利家は、最初は勝家につくも、考えた挙げ句に秀吉に降伏した。 妻、松のはからいで、秀吉から咎められることはなかった。
天下を統一した秀吉に後継者の 秀頼が生まれると豊臣五大老のひとりに指名された。秀吉の死後、 大名同士の婚姻の禁を破った家康 に、石田三成らと反発するが、秀吉の死を追うかのように、翌年病死した。