毛利元就

経歴

毛利元就は、戦国最高の知将と評される、中国地方の覇者である。安芸国(広島県)の国人(地方有力武士)領主だった弘元の次 男として生まれ、少輔次郎と呼ばれた。兄、興元とその子、幸松丸が続いて死去したため、27歳で家督を継ぎ、郡山城(広島県)城主になった。

概要

当初は出雲国(島根県)の尼子氏と周防国(山口県)の大内氏にはさまれ、いつ侵攻を受けるかわからない立場にあった。元就は、 一時的に大内氏の配下に入って尼子氏と戦うなど、バランスをとりながらも彼らの影響下からの脱却を画策した。 まず1544年、強力な水軍をもった備後国(広島県東部)の小早川氏に3男の隆景を養子に出し、次いで1547年、妻の実家である吉川氏に次男の元春を、養子として送り込んだ。そして後継者争いに巧みに介入し、 隆景と元春に半ば強引に家督を継がせることにより、安芸、備後、石見を勢力下におく大名となった。 1551年、元就が従属していた大内義隆が、家臣の陶晴賢に討たれる事件が起きた(大寧寺の変)。晴賢は元就と協力して大内領を支配しようとしたが、両者の考えは並び立たず、対立するに至った。 晴賢の強大な 陸軍は3万、対して元就の最大動員数は5000。元就は晴賢の勢力を削ぐために、晴賢の智将江良房栄が謀反を企てているというデ マを流した。晴賢は房栄の筆跡をまねた偽書を信じ、房栄を殺害。 時機到来と見た元就は晴賢に宣戦布告。晴賢の先鋒を撃破した (折敷畑の戦い)。激怒した晴賢は 2万の軍勢を率いて出陣したが、 元就はこれを瀬戸内海の厳島に誘導。村上水軍を味方につけ、暴風雨の中を夜襲し、大軍のため身動きのとりにくい晴賢軍を壊滅させ た(1555年・厳島の戦い)。 周防・長門(山口県)と共に、 海上交通の要所・厳島を手中に収めた元就は、矛先を山陰の尼子氏に向けた。1566年尼子義久を降伏させ、元就は因幡国(鳥取県)から長門国に至る中国10か国を平定した。 1557年には、長男・隆元に 家督を譲ったが、隆元が全政権の委譲を辞退したため、実権は握り続けていた。隆元が急死すると、 その長男・輝元の後見人となり、 家督を継がせた。1571年に病死するまで、一族の結束が何よりも大事だと力説していたと伝えら れている。

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