概要
義元が領主となった当時、東に は勢いを増していた北条氏綱 (... P125)が、北には元服した武 田信玄が、西には織田信秀
が領地を狙って目を光ら せているという、油断のならない 状況だった。まず義元は、信玄に 追放された武田信虎(=P129) を受け入れ、信玄と同盟を結ん だ。そして三河国(愛知県)に侵 攻してきた信秀に勝利し、駿河・ 遠江・三河を支配し、東海地方の 覇者となった。さらに信秀が死ぬ と尾張国にまで圧力をかけ、勢力 を広げていった。 _1554年に北条氏・武田氏と 甲相駿三国同盟を結び、背後を固 めた義元は、いよいよ上洛を目論 んだ。1560年、2万5000 の大軍を率いて三河から尾張へと 西進したが、桶狭間で休憩したと ころを、10分の1程度の軍勢の信 長軍の奇襲を受け、討死した。
義元の父・氏親は、戦国大名としては早い時期に検知を行い、、農村の把握に努めたが、義元はさらにそれを進め、土地と年貢を完全に掌握した。父の定めた分国法 「今川仮名目録」にも追加分か条 を制定し、内政を重視した。ま た、領国内での商工業の保護・発 展に努めると同時に管理も行った。 京文化にあこがれただけの武将と の評価もあるが、政策面を見れば、 新進の気概をもった戦国武将だっ たとの見方もできる。