概要
上杉家の知将として、そして上杉 景勝の右腕として、要職を歴任 し、その才能は豊臣秀吉(IP1 56)にも高く評価された。15 98年に米沢城主(山形県)とな り、3万石を領した兼続を、秀吉は家臣として高給で迎えたいとさ かんに説得したが、仕えるのは上 杉景勝以外にいないと、兼続はそ れを固辞したという。
しかし秀吉の朝鮮出兵では、景 勝と共に文禄の役で渡海し、前線 で従軍した。秀吉の死後は、景勝 とともに豊臣側につき、家康に直 江状と呼ばれた挑戦状を送ってい る。関ケ原の戦いのときは、福島 方面で家康方の伊達政宗(IP1 18)と、山形では最上義光 (1 P121)と戦ったが、家康側勝 利の報を受け、国に戻った。 「戦後は景勝と共に、結城秀康の 仲介で家康に帰順したが、上杉家 の領地は会津120万石から、米 沢38万石に減封されてしまった。 しかし兼続は、家臣を見捨てるこ となく、つき従うものは米沢へ連 れてきたという。
兼続の甲冑の前立には「愛」の 文字が刻まれているが、これは愛宕 権現、または愛染明王からとった とも、「愛民」の信条からとった
ともいわれる。
兼続は文武にすぐれ、古典にも 青通していた。朝鮮から持ち帰っ た書籍や、蒐集した古書を利用し て文庫を設立したが、これは後に 藩校興譲館に受け継がれ、米沢藩 子弟の教育に使われた。また直江 版と呼ばれる出版事業を行い、中 国の古典『文選』を出版した。