概要
1578年謙信が病没すると、同じ養子の上杉景虎と激しい家督争いが起こった(御館の乱)。景虎の背後には実家の北条家とその同盟国武田家があり、最初は景勝にとって不利な状況だったが、春日山城をいち早く占拠し、勝利した。
家督を継いだ景勝であったが、 1582年、信長の家臣柴田勝家に越中国(富山県) まで侵攻され窮地に立った。しかし同年、本能寺の変で信長が死去 したことで織田家の北進が中止と なり、危機を脱した。「その後、景勝は賤ケ岳の戦い、 小牧・長久手の戦いなどで秀吉側につき、1586年には上洛して正式に豊臣秀吉の臣下になった。 1592年の文禄の役では朝鮮へ渡り、戦線に加わった。帰国後は佐渡の金山・銀山の支配を任され、 豊臣家五大老のひとりに抜擢され るに至った。そして1598年、 越後から会津120万石へ加増移封となった。
関ケ原の戦いでは西軍・豊臣側 と共に江戸幕府側 について、伊達政宗、最上義光らの出と交戦したが、敗戦後は家臣の直江兼続と共に徳川家康に謝罪した。上杉氏の存続は許されたが、出羽国米沢30万石の藩主へと減移封された。し かし1614年の大坂冬の陣では、兼続と共に江戸幕府側の先発隊として出陣し、大功をあげている。