概要
父の死後、兄の晴景が守護代を継いだが、病弱な上に政務よりも芸事を好んだため国内が混乱した。そこで寺に預けられていた虎千代が還俗し、鎮圧にあたることになった。虎千代は景虎と名乗り中越地方を平定すると共に、春日山城に入り、守護代職と家督を譲り受けた。
1552年、関東管領上杉憲政 は、北条氏康に上野国(群馬県) を攻められると、景虎に助けを求めてきた。景虎は北条氏を幕府の敵と見なし、派兵して退けた。虎千のとき景虎と北条氏との対立が始まった。
甲斐国の武田信玄とは、1553年~1564年、川中島(長野 県)で5回戦った。領地を広げる ことが目的ではなく、信玄から逃 げてきた信濃国の城主ら、小笠原長時、村上義清を助けたことがきっかけだった。謙信と信玄は好敵手として知られ、謙信は「越後の龍」、信玄は「甲斐の虎」と並び 称せられた。 1560年には、景虎は支援を要請してきた越中国(富山県)の椎名康胤を助けて富山城、増山城を攻略すると、いよいよ北条氏康討伐に小田原へ向けて出発した。厩橋城(群馬県)を拠点として北条氏討伐を関東全域に呼びかけると、ぞくぞくと兵が集まった。関東管領の上杉憲政を擁して小田原を包囲したときは、10万を超える兵数となっていた。しかし、信玄が川中島に築城して軍事行動に出るなど、背後で不穏な動きを見せたため、1か月に及ぶ包囲を解いて帰国した。
景虎は朝廷と室町幕府 に忠実であるという功績により、関東管領職と上杉の姓を受け継ぎ、上杉政虎と改名。政虎は将軍 権威を擁護しており、将軍が足利義輝になると、名をさらに輝虎と改めた。1568年、輝虎は越中一向一 揆の征圧に手を焼くようになっ た。助けたはずの椎名康胤が裏切り、一揆を支援したからである。 翌年には、北条氏康からの和睦の申し入れを受け入れ、越相同盟を結んだ。その翌年には氏康の子氏秀を養子として迎え、その子を景虎と名乗らせた。1573年に信玄は病没した。 食事中に訃報を聞いた輝虎は箸を落として号泣し、「惜しい英雄を なくした」と嘆いた。家臣が、これを機に武田の領土へ攻め入ればどうかと進言しても耳をかさなかったという。その翌年、輝虎は出家し、謙信と号 した。1576年には越中一向一 揆を抑えて越中を平定。康胤は謙 信に帰参を申し入れたが、謙信は さすがにこれを拒絶。康胤は自害 したという。謙信はさらに翌年能 登国(石川県)平定のために七尾 城へ進軍するが、七尾城支援を要請されていた織田信長軍と交戦す ることとなった。謙信は、早々と七尾城を陥落させ、手取川の戦いで織田軍を撃破した。
しかし翌年、再び織田軍と相まみえようとした矢先、謙信は脳溢血で急逝した。後継者を決めていなかったため、その後の上杉家では激しい内乱が起き、家勢は大きく衰えてしまった。