概要
信晴は21歳のとき、専制政治を行い暴君とおそれられた父を、義兄・今川義元の もとへ追放し家督を継ぐと翌年に信濃国(長野県)への侵攻を始めた。当時の甲斐は凶作続きだったため晴信が信濃の義弟・諏訪頼重に救援米を要請し、代わりに塩や海産物を贈ったが、 何も届かなかったからである。領土を広げた晴信は、続いて北信濃の小笠原長時、村上義清を撃破。 彼らが越後国(新潟県)の長尾景虎(上杉謙信)を頼ったため、景虎と川中島(長野県)で激突した。川中島での戦いは1553年 ~1564年の計5回にわたっ た。その間に、晴信は信玄と号している。
武田氏は、北条氏・今川氏と共に同盟を結んでいたが、今川義元の娘を嫁にしていた嫡男義信が、1565年謀反を起こしたのを機に、信玄は今川氏との同盟を破棄、滅亡に追い込んだ。これら一 連の流れで北条氏とも敵対関係になったが、北条氏康の死により、北条氏とは和睦した。
信濃・駿河を平定し、遠江・美濃・上野の一部にも領土を拡大した信玄は、1572年にいよいよ京都へ向け、西上を開始。
織田・徳川連合軍を三方ケ原(静岡県)で撃破した。
同時に浅井・朝倉氏、石山本願寺らと交渉を進め、織田信長包囲を固めた。しかしその直後に喀血。持病が悪化して1573年、志半ばで没した。
信玄は政治に力を入れることで 強力な軍団をつくった。喧嘩両成敗などを取り入れた分国法「甲州法度之次第」を定め、交通制度の整備、治水事業、新田開発を行った。また、金山を開発し、商業や経済活動を重視した。「信玄は、身分に関係なく能力のある者は重用し、常に「人は石垣、人は城」といっていたとい う。領民一人ひとりを必要不可欠 なものと考えることで信玄と領民との間に強い信頼関係が生まれた。これこそが33年に及ぶ信玄の治世を安定させ、戦国最強とうた われた武田軍団をつくったといえよう。