北条早雲

経歴

1432年に備中国(岡山県)で生まれる。

概要

戦国時代の幕開けは、早雲が足利茶々丸を襲い伊豆国を一夜で乗っ取った1493年とされる。 室町幕府で要職を務めていた早雲は、駿河国(静岡県)の今川氏に嫁入りしていた妹から、内紛の解決を頼まれた。 1487年、駿河に下向して紛争を解決した早雲は、興国寺城の城主となった。当時東隣の伊豆国には鎌倉公方の足利政知がいた。 しかし政知の死後、後継者と見られていた潤童子が兄の茶々丸に殺害され、混乱が生じた。早雲はその状況を見るや、わずかな兵をまとめただけで伊豆へ急襲した。電光石火で伊豆国の主となったのである。 早雲は伊豆に韮山城を築くと、次はさらに東の相模国(神奈川県)にねらいをつけた。早雲は小田原城主の大森藤頼と懇意になると、藤頼を計略にかけた。小田原城背後の箱根山中に、角に松明を つけた1000頭の牛を放ち、大軍の兵がいるように見せかけ、さらに小田原の町にも火を放った (1495年)。藤頼は城を捨てて逃げたため、早雲は小田原城を入 手した。 さらに早雲は東へ進出し、三浦道寸を攻めた。三浦半島先端の三崎城に立てこもった三浦軍を包囲し、かけつける援軍も討ち破った。籠城して3年目、力つきて城門を開いた道寸を滅ぼした(1516年)。 相模国を征圧した早雲は、検地を行い、貫高制(収穫量を貨幣量で示す税制)を用いた。これは戦国大名としては最古の事例とされている。また、年貢を五公五民から四公六民とし、農民の負担を軽 減したという。さらに分国法(戦国大名が制定した法律)の原形と なる家法「早雲寺殿廿一箇条」を 定めたとされる。

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