概要
出羽国(山形県)の戦国大名、伊達輝宗の長男として生まれた。幼名は梵天丸。幼くして疱瘡のため右目の視力を失った。しかし輝宗と家臣の片倉景綱からは、知恵と度胸をあわせもった武将の器であると大いに期待をかけられ、かわいがられた。 11歳で成人して政宗と名乗り、13歳で田村清顕の娘、愛姫を正室に迎え、18歳で家督を父から譲り受けた。
その後、大内、畠山、蘆名氏ら、周辺の大名を次々攻略し、24歳で奥州66郡のうちの約3分の1を治める大名へと成長した。
天下統一を目前とした豊臣秀吉は、政宗に配下に入るようしきりに勧めてきた。自国の安泰を優先しようとした政宗は、秀吉に従うのも仕方ないとして、小田原攻めの最中であった秀吉のもとに参陣しようと決断したが、小田原への着陣が遅れることになった。服属の遅延や秀吉配下の蘆名氏を攻め滅ぼしたことにより、政宗は秀吉の怒りを買い幽閉されてしまった。
しかし、詰問に応じながらも千利休に茶を習いたいと頼み込むなどといった、政宗の腹のすわった態度が認められ、会津領を取り上げられることだけですみ、釈放された。政宗はその後もたびたび窮地に立たされるが、知恵を使ってそのたびに危機を脱している。
秀吉の死後は徳川方につき、豊臣方の上杉景勝討伐に出陣。関ケ原の戦いのときは景勝の家臣の直江兼続らと福島で戦った。徳川方が勝利すると、仙台に居を移し、以後は広大な領土を平穏に治めた。
1613年には支倉常長を、メキシコ、スペイン、ローマへ送り、海外貿易を企図するなど、 広い視野の持ち主であった。もう少し早く生まれていれば、信長や秀吉と天下を争える知将だったといわれる所以である。