概要
若いときは、同じく土岐氏一族の斎藤道三に仕えたが、その後、越前国(福井県)の朝倉氏に仕えた。光秀はそこで足利義昭(後の室町幕府15代将軍)と出会う。奈良の興福寺に幽閉されていた義昭は、脱出して朝倉氏を頼り、上洛を試みようとしたのである。しかし朝倉氏が上洛に消極的であったため、義昭は尾張国を平定した織田信長に目をつけた。信長は道三の娘を妻にしており、光秀と信長とは遠い親戚筋にあたる。光秀は義昭を信長に介すると同時に、信長の配下に入った。
やがて義昭と信長が対立し始めると、光秀は信長の直臣となった。比叡山焼き打ちで武功をあげ、5万石の領地を得て坂本城(滋賀県)を築いた。さらに石山本願寺、荒木村重、松永処秀を攻め、彤波国(京都府)の波多野兄弟らの難敵を降した(1579年)。光秀は信長から丹波一国を与えられ、近畿地方の織田大名の総合指揮権も手中にした。
信長から高く評価されていた光秀であったが、毛利攻めで遠征しいる羽柴秀吉を支援するため出陣を命じられたとき、間者から、信長がわずかな手勢で京都の本能寺に滞在するという報を得ると、6月1日、1万3000の兵を率いて西へ向かわずに京都へ向かった。2日未明、兵たちに向かい「敵は本能寺にあり」と叫び急襲。
信長は炎の中で自害した。光秀は信長に代わって新政権を打ち立てようとしたが、秀吉がわずか11日間で中国地方から引き返してきた。光秀は天王山山麓の山崎(京都府)で秀吉を迎え撃ったが敗れ、敗走中、土民に竹槍で刺され落命した。