概要
はじめは織田信秀、信秀死後は織田信長の弟・信行の家臣だったが、織田家の内紛で信行が信長に敗れる(1556年稲生の戦い)と、信長に信従するようになる。翌年、再度信行が信長を廃しようとしたことを信長に告げ、信行が自害に追い込まれてからは、勝家は信長に重用されるようになった。勝家は信長に絶対的な忠誠心をもち、信長もあつい信任をおいた。
近江国(滋賀県)長光寺城の籠城戦で勝利、越前国(福井県)の一向一揆を鎮めるなどの武功をあげて、北庄城主となった。1580には年には加賀国(石川県)を平定し、能登国(石川県)・越中国(富山県)へ進出した。政治家としての資質ももち、織田家で最も広い領地を与えられ、よく治めたという。
本能寺の変で信長が横死したとき勝家は魚津城・松倉城を包囲中で、上杉景勝の抵抗にあって京都へ戻ることができなかった。それが一因で織田家の後継者問題では明智光秀を討っ羽柴秀吉に主導権を奪われたうえ、1583年の賤ケ岳の戦いで秀吉に敗れた。勝家は信長の死後、信長の妹、お市の方を妻としていたが、北庄城でお市の方と共に自害した。