ポル・ポト

経歴

1925年5月19日カンボジアで生まれる。 本名は「Saloth Sar」だとされる。

概要

ポル・ポトはどこで生まれたのかいつ生まれたのか本名も定かではない。幼少期の頃の記録はあまりわかっていない。だが裕福な農家の生まれだったと思われる。 カンボジアはフランスの保護国となっていた。彼は青年に成長するとフランスへ留学することになる。フランスで共産主義に触れて、それに傾倒していくことになる。そしてフランス共産党に入党した。 彼がフランスから帰国してすぐにカンボジアは独立して王政となっていた。ポル・ポトは教師となって生徒にフランス文学や歴史を教えていたそうである。そのような生活の中で彼はクメール人民革命党に参加した。彼は党内で順調に出世していった。 ポル・ポトは北ベトナム、中国、北朝鮮を旅する。そこで毛沢東の影響を受けるようになる。カンボジアに帰ると原始時代の生き方を学び、そこでは知識のない未開の部族が暮らしていて彼らには格差がないと感じた。 カンボジアで農民反乱が起こるとポル・ポトたち共産主義勢力も武装蜂起した。 カンボジアはアメリカの軍事介入などあり混乱してがポル・ポト率いるクメール・ルージュが支配した。 ポル・ポトは実権を握ると都会の人間を農村へ移住させた。彼らは新人民という階級に属し重労働によって多くが死んでいった。そして党内の人間も拷問の末に次々と粛清していった。 更にポル・ポトは知識階級の人間も殺していった。特に教師たちを抹殺していった。学校は革命の歌とポル・ポトの偉大さを教えるためだけの場所となった。それから通貨を廃止した。 農機具を廃止したため米の生産力が落ちて国民は餓死した。それをポル・ポトはスパイのせいだと思い、国内の人間を見境なく殺すようになった。ポル・ポトは少数のイスラム教徒を殺し、字を知っていると殺し、歌を歌えれば殺し、外国人を殺していった。国民は疑心暗鬼になり互いにスパイだと密告して殺されていった。 逃げたカンボジアの一部はベトナムから支援を受けてポル・ポトと戦った。ポル・ポトも中国から武器などの支援を受けたがカンボジアではすでに成人がおらず少年しか残っていなかった。少年兵ではベトナム軍には歯が立たなかった。 ポル・ポトは逃亡しながら生活しそこで死去した。

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