概要
幼少期は宮中で育てられず、庶民の子どもたちと遊んでいたという。
即位したが幼年な康煕帝では政治ができずにオボイが実権を握った。14歳のときに康煕帝が親政を行うがオボイが邪魔となっていた。
康煕帝は貴族の青年たちと宮中で相撲を行っていた。オボイがその様子を見ていると屈強な青年たちはオボイを捕らえる。そしてオボイは禁固刑として政治から抹殺する。
清朝は雲南の呉三桂、広東の尚之信、福建の耿精忠が半ば独立勢力のように存在していて康煕帝はかねてからそれら三藩が清にとっていずれ災いとなると考えており、取り潰しのための圧力をかけた。すると康煕帝が20歳になるときに「三藩の乱」が起こる。
戦いの当初は三藩が優勢だったが康煕帝は北京で清軍に的確な指示を行い、徐々に押してゆく。8年続いた三藩の乱は清朝の勝利に終わる。これによって真の中華統一が達成された。
だが今度は帝政ロシアが満州地域に軍を進めて拠点を作ったため清と小競り合いになった。康煕帝はロシアと和睦を行い、国境線を定めてこれを解決した。
それからモンゴルのガルダン・ハーンが内モンゴルに侵入してきた。康煕帝は自ら兵を引き連れてガルダンを打ち破った。
康煕帝はチベットも占領して版図を拡大する。
康煕帝は質素な生活をして国民に免税を行い、民を安んじた。康煕帝の治世は61年にも及んでこれは中華の歴史で最長のものである。