概要
金は北宋に侵攻して開封を包囲した。北宋は歳幣を結んだので金軍は帰っていったが北宋は金との約束を反故にすると再び開封は包囲されてその時、秦檜は対金強硬派として金との交渉の場に赴いたが金に連行されてしまう。
開封は金に占領されたがその後の宋は欽宗の弟の高宗が即位して首都を臨安として南宋として存続する。
しかし三年後、秦檜は金の見張りを殺し、家族とともに南宋へと逃げてきた。秦檜は高宗と面会すると金と和平を結ぶことを勧め、かつての対金強硬派の面影はなかった。高宗もその意見に賛成し、秦檜を宰相とする。
金軍が国境を侵して南宋に攻めてくる事態が起こった。だがそれを食い止めた者たちがいた。彼らは義勇軍を組織して私兵を率い、精強な金軍と戦った。彼らは四名将と呼ばれ、その中に「岳飛」がいた。彼らの活躍によって金軍は引き返していった。
それから秦檜は金と和平交渉を行った。南宋は金に対して臣下の礼を行い、銀25万両と絹25万を毎年送る替わりに領土を返還されるというものだった。しかしこの和睦は締結したあとですぐに金が約束を破り返還した領土を再度占領する。
さらに南下してくる金軍に対してまた四名将が立ち上がり金軍と戦った。彼らの奮戦によって金軍は敗走する。特に岳飛の活躍は凄まじく、金の名将であるウジュを粉砕してかつての首都開封を取り戻す手前まで進軍する。
彼ら四名将の活躍が邪魔だと思った秦檜は彼らの兵権を取り上げる。しかし韓世忠と岳飛だけは同意しなかった。韓世忠は渋々兵権の譲渡に応じるが岳飛は最後まで応じず金軍と戦い続けたが後方からの兵站の支援がなくなった岳飛は南宋へと帰還した。そこで秦檜は岳飛とその息子を逮捕して処刑した。
主戦派を抑圧して権力を握った秦檜は翌年、金が占領している国土を割譲し、宋が金に毎年銀25万両と絹25万疋を金に貢するという、屈辱的な内容の和議を結んだ。
それから金と南宋は争わなくなった。
岳飛が牢獄へ入れられているときに韓世忠は秦檜に岳飛に罪はあるのか尋ねた。秦檜は「莫須有(あったかもしれない)」と答えたという。