概要
皇帝に即位した徽宗だったが政治には一切興味・関心がなかった。興味があったのは芸術や書道であった。徽宗は花石綱を江南地方から取り寄せるために莫大な金と人員を蕩尽した。徽宗は国民に重税を課して際限なく自らの芸術のために国の費用を投じた。
当時の中華は燕雲十六州が北方民族である契丹族の国「遼」に占領されていた。さらに澶淵の盟により毎年莫大な金と銀と絹と遼へ贈呈しなければならなかった。
しかしその頃、北方では新興勢力の金が完顔阿骨打(ワンヤンアグダ)のため勃興した。徽宗はそれを好機だと思い金と協力して遼と戦うことにして金も承諾した。だが北宋に農民反乱が勃発しその鎮圧のために遼への出兵が遅れる。結局金がほとんど単独で遼を滅ぼしてしまう。
金は燕京を宋に返還したが徽宗の暴政のために燕京の住民は金へ移住した。金の完顔阿骨打が死亡すると太宗が即位すると、金は宋へ侵攻した。
すると徽宗は自分の息子、欽宗を即位させると自分は江南へ逃げたのだった。徽宗は欽宗によって首都開封へいたのだがその頃金軍がやってきて徽宗と欽宗は捕らえられ金へ連れさられて軟禁されたまま死んだ。