趙匡胤

経歴

天成2年2月16日(927年3月21日)生まれ 後周の武将 後に北宋の初代皇帝となる

概要

事実上唐王朝が滅び、世の中は五代十国の戦国時代に突入していたときに趙匡胤は生まれる。 父と同じく後周の軍人となり、数々の功績を上げる。他国は趙匡胤を始末しようと皇帝である世宗との仲を引き離そうとするが趙匡胤は世宗に対して潔白を証明して世宗はますます趙匡胤を信頼する。 だが、世宗は親征の最中に病に斃れてしまう。世宗の息子はまだ7才と幼く、皇帝として即位するものの、将軍たちは趙匡胤の方を信頼していた。 趙匡胤は将軍たちに「幼帝では無理です。是非とも皇帝となってください」と迫られ、皇帝の着る服を着させられて皇帝にさせられてしまった。 趙匡胤は部下たちの要請で仕方なく首都の開封へ進撃して幼帝から禅譲をうけて正式に皇帝となる。趙匡胤はほとんど無血で易姓革命を成功させた。 960年に宋王朝が建国。皇帝となった趙匡胤は、国内の整備と周辺諸国の平定に乗り出す。江南の経済を発展させて、科挙合格者を優遇して文治主義を推し進める。 荊南、後蜀、南唐を滅ぼして、呉越は臣従を誓った。残る敵対勢力は北漢だけとなったが、問題は北漢の後ろ盾であり、万里の長城を越えて「燕雲十六州」まで侵食してきている遼の存在であった。976年に趙匡胤自ら遼への遠征を行うものの、中途の宿営中に突然死してしまった。

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