玄宗

経歴

垂拱元年8月5日(685年)生まれ 唐の第6代皇帝

概要

玄宗が即位すると前半の治世は「開元の治」と称され、唐の絶頂期であった。玄宗が行った政策は仏教僧達の度牒の見直し、税制改革、節度使制の導入などである。対外的にも北方の外敵を征服して、平和を維持し、経済・文化の発展とともに、輝かしい繁栄の時代を作り出した。 千里の旅をするのに短剣一ついらないと言われるほどの平和を見せた。 しかし晩年になると玄宗は皇太子の妃、楊玉環に夢中になり奪って自らの後宮に入れて寵愛した。これがかの有名な楊貴妃である。玄宗は離宮の華清宮に楊貴妃のために立派な温泉を作り、楊貴妃の一族をとりたてていった。その中でもひときわ出世したのが、またいとこの楊国忠であった。 さらに家臣から用いることを忠告されていた安禄山を重用するようになる。楊国忠と不仲だった安禄山は楊国忠討伐の名目で挙兵する。安禄山は怒涛の勢いで攻めてきて洛陽を陥落させる。首都長安を守る要所潼関まで迫ってきた。しかし玄宗は宦官からの讒言によって名将であった守将を処刑してしまう。そして潼関は陥落する。 玄宗は長安から逃亡することとなる。玄宗が長安から蜀へと逃げる最中兵たちはこの反乱は楊国忠たち楊一族のせいだとして楊国忠と楊貴妃を処刑される。 蜀へとたどり着いた玄宗だったが皇太子が勝手に皇帝へ即位し玄宗は上皇となった。安禄山が息子に殺されると唐軍は長安を奪回した。すでに実権はなく、楊貴妃も死んだ玄宗はその後寂しく没した。

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