概要
楊広は、文帝楊堅の次男として生まれる。
本来なら長男でない楊広は太子でなく後継者にはなれなかった。しかし皇太子である長男は女遊びをして浪費癖があったため楊広は父である楊堅が生きているときにはよく父の補佐をして節度を守り、信頼を得て二代目皇帝となった。さらに皇太子を廃するように讒言した。
即位した煬帝はそれまでの倹約生活から豹変し奢侈を好む生活を送った。また部下を残酷な刑で処刑した。
豪華な宮殿を建設したり、100万人の民衆を動員し大運河を建設、華北と江南を連結させた。
612年には煬帝は高句麗遠征を実施する。高句麗遠征は3度実施されたが失敗に終わった。国庫に負担を与える遠征は民衆の反発を買って、各地で反乱が発生、隋国内は大いに乱れた。さらに多くの将士から恨みを買った。各地で李密・李淵ら群雄が割拠する中、煬帝は難を避けて江都に逃れたが近衛兵達に殺された。享年50歳だった。