項羽

経歴

紀元前232年に生まれる。秦の始皇帝が中国を統一した時、秦に滅ぼされた楚の将軍、項燕の孫。 父を早くに亡くしたため叔父の項梁に養われていた。

概要

秦の始皇帝が中国を統一した時、秦に滅ぼされた楚の将軍、項燕の孫。 項羽は若い頃に剣術や書を習ったがどれも手につかなかった。 「文字なぞ自分の名前が書ければ十分です。剣術のように一人を相手にするものはつまらない。私は万人を相手にする物がやりたい」と項羽は言ったので項梁は兵法を教えた。 その他にも始皇帝の行列を観て「いつかあいつにとって代わってやるぞ」と叫んだという逸話で知られる。 「陳勝・呉広の乱」が起こる項羽は郡守を殺害する。その他の郡守の護衛の兵士もことごとく殺害したので項梁に降伏した。 紀元前208年、項梁は秦討伐の兵をあげ、項羽は項梁の武将として、従軍することとなった。項梁は項羽に一軍を率いさせて秦の都市を落としていった。その頃劉邦と出会い同じ楚人であった劉邦は項梁の臣下となる。 項梁は参謀となった范増の進言により、楚の王族の末裔に「懐王」の称号を奉り戦いの大義名分を得る。 一方その頃、秦では文官だった章邯が罪人から討伐軍を組織して反乱軍を次々に倒していった。 とうとう章邯は楚軍と戦うことになるが項羽と劉邦によって敗走する。しかし章邯は油断していた項梁に夜襲をかけて戦死してしまう。 項羽は項梁を失ったことで本来の粗暴さが現れてこのことが項羽の運命に影響してくる。 一度本拠地に戻り体制を立て直した項羽は再び出陣する。最初は宋義という人物の指揮下に入っていた項羽だったが進軍が遅いとして宋義を殺害してしまう。 王離率いる秦軍20万人が趙の鉅鹿を攻めていた。各国の軍は大軍である秦軍を恐れて戦おうとはしなかった。しかし項羽は趙の張耳・陳余の救援要請を受けて鉅鹿の救援へと赴く。項羽は3万ほどの兵力で20万の王離の軍に勝利し、王離を捕らえる。諸侯たちはそんな項羽の強さに恐れ入り、項羽の支配下に入る。 しかしまだ名将章邯率いる20万の秦軍が残っていた。だが項羽の戦の才能はずば抜けていた。項羽はその後も章邯率いる秦軍を攻めて連戦連勝する。 ついに章邯は項羽に降伏する。だが項羽は捕虜たちを20万人を生き埋めにして虐殺してしまう。 こうして秦軍は崩壊した。あとは咸陽へと進軍するだけであった。だがその頃別働隊の劉邦はすでに咸陽へと入っていた。劉邦は函谷関を兵で防ぎ、項羽の関中入りを拒否したため、函谷関を攻撃して関中に入った。 だが劉邦は平身低頭で謝ってきたため許して漢王に封じた。 項羽は咸陽で略奪と虐殺を行ったため咸陽の市民からよく思われなかった。戦後項羽は西楚の覇王を名乗り各諸侯に論功行賞を行うが不公平ともいえる領地配分により不満が噴出する。とうとう項羽に対して反乱が起こる。その中にあの劉邦も項羽に対して牙を向けた。項羽の諸侯となっていた章邯は破れてしまった。 項羽は反乱軍に倒すために自ら兵を連れる。しかし項羽のが不在の間に本拠地の彭城が劉邦に落とされた。項羽は3万の兵を連れて彭城に戻る。圧倒的大軍である劉邦軍56万人の兵力に対して3万の兵で攻撃し大勝利する。敵軍の損害は20万とも言われている。 以降劉邦は直接戦闘を避けて項羽陣営の切り崩しにかかる。項羽の諸侯であった黥布が裏切り劉邦につく。参謀の范増や武将の龍且・鍾離昩・周殷に離間の計を行い項羽からの信頼関係を失わさせる。范増が項羽に見切りをつけて去り、項羽は他の将軍に軍権を与えることを躊躇し、楚軍は徐々に弱体化する。 韓信が龍且を破り、項羽は徐々に追い詰められていく。そして項羽は劉邦からの停戦を受け入れるが軍を引き返しているときに背後から攻撃されこれを退けている。 韓信と彭越が項羽討伐の軍を起こした。また、かつての部下であった黥布も項羽討伐のために劉邦のもとに集まり、項羽の武将であった周殷も項羽を裏切った。 圧倒的な劣勢のなかで「垓下の戦い」にて項羽は生涯初めての敗戦をした。 周りは敵に囲まれ四面楚歌の中で項羽は部下と共に別れの宴を開き、愛妾である虞美人、愛馬である騅との別れを惜しみ、「垓下の歌」と後に呼ばれる詩を読んだ。 項羽の軍は数十騎で最後の突撃を行う、項羽は首目当てで襲いかかる漢軍を一人で数百人の兵を斬り殺した。しかしそこに同郷だった人物がいるのを見つけると「お前に手柄をやろう」と告げ、自ら首をはねて死んだ。

レビューを投稿する