劉邦

経歴

前202年2月28日 生まれ。 沛県の農民出身である。 漢の皇帝となる。

概要

農民出身だったが秦の小役人となり、亭長となった。秦の都である咸陽において労働する人間たちを率いて連れて行った時、たまたま始皇帝の行列を見ることがあった。この時、「ああ、男として生まれたからにはああなりたいものだ」とつぶやいた。 ある時、人夫を引き連れて咸陽へ向かっていたが、秦の過酷な労働と刑罰を知っていた人夫たちは次々と逃亡した。秦は法も厳しく、人夫が足りなければその引率者が責任を取らされる、とやけになった劉邦は浴びるように酒を飲んだ上、酔っ払って残った全ての人夫を逃がした。そして、行くあてがないと残った人夫らと共に沼沢へ隠れた。すると噂を聞きつけた者が子分になりたいと次々と集まり、劉邦は小規模な勢力の頭となった。 「陳勝・呉広の乱」が起こると劉邦は挙兵する。そこで項梁の立てた楚の王の臣下となり秦に対して戦いをする。 項梁の甥には項羽という青年がいた。項羽は剛勇無双の武将であり、秦の主力軍を次々に倒していった。その間にあまり警戒されないまま劉邦の軍団は咸陽へと到達してしまう。先に秦の首都である咸陽に入ったものが秦の旧領地を得るという約束があったが、その手柄を固辞して関中の左にある漢中の領地をもらった。 その後、秦を倒し諸侯たちに領地配分した項羽に対して諸侯たちが不満を顕にする。 劉邦は項羽に対して挙兵する。その際、韓信を登用して進軍することになる。劉邦は故道という使われていなかった古い桟道を使って関中に侵入する。韓信の進言通りになり、かつては敗北を喫した章邯を打ち破ることができた。劉邦が関中を制覇すると、主君である韓王が項羽に殺されて王を失った張良も劉邦を頼ってきた。 蕭何・張良・韓信という漢王朝の三傑が揃った。後に陳平も仲間に加わる。韓・魏・殷・河南王を攻め勝つ。 斉の討伐のため項羽が不在だった間に項羽の本拠地である彭城に進撃する。劉邦の軍勢は56万人でたやすく彭城を陥落させる。劉邦たち漢軍は宴会を開いて祝勝ムードであった。そこで項羽は3万の軍勢で引き返してくる。56万人の漢軍は項羽率いる3万の軍勢になすすべもなく大敗北する。絶体絶命の中で劉邦はなんとか逃げることに成功する。 このことがきっかけで項羽と直接戦うことを避ける戦略をとる。劉邦は守備に徹し項羽と直接は戦わないようにして、周辺国の懐柔や討伐を行い、項羽を孤立させていく。劉邦は項羽と広武山を挟んでにらみ合いが続く、しかし両軍は講話を行い、休戦することになる。しかし張良の進言により軍を引き返す項羽の背後を攻撃する。しかし項羽に大敗北した。 独自に動いており不穏な雰囲気であった韓信に王の地位と領土を約束し、彭越にも梁王の地位と領土を約束する。 韓信、彭越の軍は果たしてやってきた。さらに、黥布・劉賈の軍も来た。項羽の武将である周殷も項羽から寝返った。 追い詰められた項羽は垓下に軍を構えた。項羽の軍は10万程度であったのに対し、漢軍は韓信の軍だけでも30万人いた。戦いは一戦で決まった。項羽は大敗する。項羽にとっては生涯最初にして最後の敗北。劉邦にとっては、項羽に対する最初にして最後の勝利となった。 垓下にこもった楚軍は四面から楚の歌が聞こえたため、戦意を失った。項羽は江東に逃走しようとしたが、途中で断念して自害した。楚の地は平定され、最後に魯の地が降伏した。 項羽を下した劉邦は韓信・黥布・彭越ら諸侯王に認められ、皇帝に就任することになる。ここに漢王朝が成立する。 劉邦は天下統一を助けた数々の部下たちを粛清する。匈奴が進行して来たときには劉邦自ら討伐に軍を動かすが匈奴の冒頓単于に負ける。 しかし漢王朝は長い間中華を統治し安定支配を続けた。

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